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児童養護施設で育った海外在住ゲイのブログ

同性婚をめぐる集団訴訟について

LGBTの皆さんはご存知だと思いますが、2月に同性婚を認めないのは違憲だとして国を相手に集団訴訟が始まりました。

 

2019年2月の同性婚をめぐる集団訴訟について

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下記のCNNのインタビューに出てる女性のカップルにはとても勇気づけられます。

ドイツ人と日本人のカップルなのでわざわざ日本に住まなくてもドイツで結婚できるわけですがドイツ人のティナさんが「これは私たち二人だけの問題ではない。日本から簡単に出ていけない人たちもいる」とLGBTコミュニティのために立ち上がっているのです。

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まだまだ同性婚に対する反感や無関心が多い中素晴らしい行為だと思います。誰にでもできることではないことを先導を切って推し進めているところは本当に尊敬します。

 

 

 

 

母の死と心に空いた穴

中学二年生になってある日のこと、HRの時間に担任の先生からすぐに帰るように言われ、施設の職員から母が危篤状態であることを知らされました。

 

すぐに病院に駆けつけましたがすでに母には意識がなくそのままその日に脳死ということでチューブが外されました。母が病気がちなのはわかっていましたが、こんなことになるとはまったく予想していなかったのでどうしてよいかわからずにいたところ、病院に一緒に来てくれた施設の先生に手を握ってやれと言われ、母の手を握った瞬間涙が出てきて止まりませんでした。

 

時が経ち今はぽっかり感はなくなりましたが、13歳の時に母が亡くなった後心に穴が開いてしまいその感覚が数年消えませんでした。ふとした時に何とも言えない虚しさと孤独感に襲われるのです。

 

母の姉にあたる叔母がいましたが、13歳にして親という存在が存在がなくなってしまいました。一緒に助け合って育った兄の存在がなければさらにつらい孤独な人生を送っていたかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

学校生活

今日は学校生活の話をします。

 

小学校から高校まで公立の学校に通っていました。

 

私が生活していた施設にはいろんな子供がいましたが、とくに特に私はおとなしく目立たない子供でした。口下手で友達も少なかったです。(今もそのままですが。。。)

 

小学校ではあまり意識することはありませんでしたが、中高と思春期になるにつれ親と離れて児童養護施設で暮らしていること、それからゲイであることを人に知られるのが怖くなりました。周りからどう思われるのか予測できず変な目で見られるかもしれないという恐怖感がありました。

 

スポーツ少年ではなかったし、長いまつげやおっとりした話し方のせいで女の子っぽいとか中性的だと言われる(思われる)こともあり、できるだけ目立たないように言動に気を付けていました。

 

表面的な付きあいの友達はできますが、家族や恋愛の話をしたくないので友達と深い関係になることはできませんでした。

 

周りを見てもみんな一般家庭で育って普通に親がいる。自分以外にゲイの知り合いもおらず、どうして自分がこんな境遇で生きなきゃならないんだろう?と思っていました。

 

どういう経緯だったか覚えていませんが、高校生の時に現代文の授業で担当の女の先生が生徒を順に指名して一人ずつ家族構成を聞いて回りました。ほとんどが両親+自分+兄弟姉妹という回答で終えていく中、私の友達の番になりました。彼は母子家庭で両親が離婚し母親と兄と三人で生活していました。正直に答えていましたが、わざわざこんなプライベートなことをクラスメート全員の前で言わせていた教師にはらわたが煮えくり返りました。

 

なんだこのババァは?何でこんなこと聞いてんだよ?授業と関係ねーだろ。

 

幸い私の番は来なかったものの、もし回ってきていたらどう答えればよかったのか?「両親はいません。母親は死にました。兄と一緒に児童養護施設で暮らしています。」といえばよかったのかと思うとめちゃくちゃ悲しかったです・・・。

 

そして、大学に入って初めてゲイの友達ができました。高校時代の同級生です。彼と出会ってお互いのことを知った時に一気に世界が明るくなりました。彼と数カ月付き合ったのですが残念ながら数カ月でこちらから一方的に別れてしまいます。

 

大学は男子より女子のほうが圧倒的に多く、高校までとは違う自由な雰囲気でしたがそれでも周囲にゲイであることや児童養護施設で生活してきたことは言えませんでした。人からジャッジされるのがただ怖かったです。

 

大学時代後半に数人の友達にカミングアウトしました。

①ゲイであること

②親がおらず児童養護施設で暮らしてきたこと 

上記を伝えると、ほとんどの人が同情的な言葉をかけてくれます。ネガティブな反応はなくだいたい予想以上でも以下でもない反応が返ってきます。

 

なんだかまとまりがないですが、今日はここまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゲイへの目覚め・葛藤・肯定

さて、私は自己紹介でゲイですと言いました。児童養護施設での生活の話と並行してLGBT関連の話もしていこうと思います。

 

 

私がゲイであると自覚したのは小学校低学年の頃でした。目で追っていた(気になった)のがクラスの男の子だったからです。

 

小学校高学年以降は自分のことを異常(変態)なんだと思うようになり、誰にも話すことができませんでした。

 

中学2年生の時に仲良くしていたクラスメートの女の子のことが少し気になりました。シャイな性格から何もアクションを起こせませんでしたが、これが(ストレートの正常な)恋なのかな?と考えました。今思うと単なる友情の延長にすぎませんでした。自分がゲイであることを分かっていながらもその子を好きになりたいという願望が錯覚を引き起こしたのだと思います。

 

高校生の時、クラスメートの女の子といい感じになり付き合うことになったのですが何をどう進めればよいのか全く分からずほんの数カ月で破綻してしまいました。これも友情の延長すなわち錯覚でした・・・。

 

大学に入学したての頃、同じ高校から同じ大学に入った男友達と親しくなりました。高校時代は同じクラスになったことも話したこともなかったのですが、話し方でゲイだとわかる子でした。お互い周りに相談できない悩みを抱えて出会い、意気投合し付き合うことになりました。ところが同じ大学の女の子の友達から彼と付き合っているのかと疑聴かれ、怖くなった(ゲイだと認めることも彼との関係を隠して続ける自身もなかった)私は付き合った彼と距離を置き、一方的にシャットアウトしてしまいました。最低ですよね。。。彼を傷つけてしまったのは言うまでもありません。いつかどこかで会えたら謝りたいと思っています。彼が元気で幸せに暮らしてるといいな・・。

 

大学生2-3年生の時、2人の女の子ともちろんの別時期に彼氏・彼女という関係で付き合いました。自分はまだストレートとしての人生を送っていけるのかも!という気持ちでデートを始めましたが肉体関係に持っていくことができず(女性に性的興奮しない)それぞれ数カ月で別れてしまいました。

 

語学研修目的で海外で1年生活したのち大学最後の年に、自分はもう若くない、こんなこと(ゲイと分かっていながら女の子と付き合おうとすること)いつまでも続けられない!と思い、出会いを求めてゲイバー・ゲイクラブへ。ここから少しずつゲイの友達ができるようになり友達を通して最初の彼氏ができました。

 

以上、ゲイへの目覚めから肯定までの話でした。

 

 

 

 

 

 

 

児童養護施設の職員

こんにちは。今回は児童養護施設の職員について語ります。

 

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児童養護施設の子どもにとって一番近くお母さん代わりになってくれるのは間違いなく保母さんです。私は保父さんを見たことがありません。実際いるんでしょうかね?お父さん代わりの男性の職員は指導員と呼ばれていました。

 

基本的に子どもに関わりたい、福祉施設で働きたいという方が多く、しっかり働いてらっしゃる方がマジョリティーだと思いますが、前述のとおり私は大規模施設にて暮らしていたので結構な数の、そしていろんなタイプの職員がいました。

 

たくさんの保母さんが、いや女性がいる職場だとどんな風になるかだいたい想像がつくかと思います。いるんですよ、お局みたいなのが。短大や専門学校卒だと20歳ぐらいの若い新人の保母さんが入ってくるのですが、怖くて有名な保母さんの前では萎縮してしまったり、職員同士のグループが出来上がって嫌われてる保母さんがのけ者にされたり、大規模施設の場合ホームというグループに分かれて生活しているので他のホーム担当または前任の保母さんが自分のホームの子に関わるのを極端に嫌がる方など、子どもながらもなんとなくそういうのは伝わってきました。かなりブラックな業界なので結婚したら退職される方も多く、担当の保母さんは平均で2-3年で変わります。

 

指導員の方は宿直担当はあっても基本的には児童と一緒の宿舎で生活はしておらず、また日中はオフィスでデスクワークをしています。子どもたちとの接点が保母さんに比べると少ない分精神的に余裕があるようでした。まれに暴力的であったり小さな女の子にいたずらをしていつのまにかいなくなる指導員もいました。

 

この他にも施設長、栄養士、会計担当、キッチンスタッフなどいろんな職員の方がいましたが、子どもの視点で毎日を一緒に過ごすのは保母さん・指導員のみです。

 

保母さん・指導員どちらについても、「世話をしてくれている人」という認識はあっても「お母さん」「お父さん」という存在になることはありませんでした。ご自身のご家庭を築いていらっしゃる方も多くいましたし、担当もころころ変わるからです。また、90年代までは体罰も普通にありましたし、指導員から不当な理由で暴力をふられたあるいは担当の保母さんに嫌われてぞんざいな扱いを受けたケースについては今でも苦い思い出(トラウマ)として覚えています。

 

もちろん真剣に子どもに向き合ってくれる職員もいました。職員の方が退職もしくは自分が先に退所してしまうとなかなか触接会う機会を作ることはできないのですが、親身になって叱ってくれたこと、アドバイスしてくれたこと、心配してくれたこと、助けてくれたとについては今でも感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 

 

 

 

 

 

児童養護施設の子どもたち

こんにちは。今日は児童養護施設で一緒に生活していた子供たちの話をします。

 

私が育った施設は大規模施設で100人以上の子供たちが共同生活を送っていました。

 

小さい時から入所している同学年の子たちとは日々の生活や四季の行事を通して仲良かったと思います。

 

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大雑把にどういう子供たちが多かったかというと、そうですね,想像通りかもしれませんが”荒れている”や”病んでいる”子が多い気がします。

 

1. ヤンキー

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施設の職員や学校の先生の手を焼く荒くれ者です。90年代はまだまだヤンキー崇拝真っ盛りの時代だったので、改造した制服を着る、髪を染める、タバコを吸う、学校でほかの生徒や先生に暴力をふるう、こんなのが当たり前の子が各学年に数人いました。もちろん勉強なんてしないし将来について考えている子はほぼいないですね。

 

2. 病んでいるタイプ

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荒くれ者ほど自分を強く出すことができず、自分の中のもやもやしたエネルギーがおかしな方向に向かってしまっている子たちです。ヤンキーぶったりする一面もありますが、リーダー的素質にかけ、変なやつというふうに見られていじめの対象になることもあります。コミュニケーション能力が低めなので自分の思い通りにならないとかんしゃくを起こしたり施設の職員に絡んだり対応に注意が必要なタイプです。

 

3. 一般家庭の子たちとなじむタイプ

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コミュニケーション能力が高く、施設の子たちだけでなく学校の一般生徒にも友達が多いタイプ。このカテゴリーの子たちはほぼ何かしらの部活に入ってほかの生徒たちとうまくやっています。家庭の事情で親元を離れて児童養護施設で生活しているという環境上、心に何かしらの闇を抱えている子が少なくないので、このカテゴリーに収まる子どもたちの割合は少ないと思います。

 

はい、では私はどのタイプだったか?上のどれでもありませんでした。あえてカテゴリーを作るとすれば 4. 現実逃避型優等生タイプ でしょうかね。自分で優等生って表現するのもどうかと思いますが、ようは問題を起こさず言われたことはきちっとして勉強もしっかりしていたほうでした。 

 

思春期になるととにかく窮屈な施設での生活が嫌でした。一般家庭の子供たちとは異なるということを感じさせられることが多く、こんなところ早く出たい、卒園生(18歳になって退所した子たちをこう呼んでました)のような中高まで何も考えず好き勝手に生きてそのあとパッとしない人生を歩みたくないと思いながら生きていました。(めちゃくちゃ失礼な言い方ですが、ヤンキーの子たちを見ながら実際にこう思ってました。)

 

いろんなタイプがいましたが総合的見ると仲が悪いということはありませんでした。やはりお互い何かしらの事情で児童養護施設で生活しているという共通点があるので繋がっている部分がありました。

 

では今日はここまで。

 

 

 

 

児童養護施設での生活について

僕は物心がついた時には児童養護施設で暮らしていました。母親がシングルマザーで安定した仕事についておらず、健康面や生活面で子供を養育することは不可能と児童相談所に判断され施設に預けられました。母親が親戚や付き合ったいた男に家に一緒に住んでいた記憶はあるのですが、長期間固定した家で生活していた記憶がほとんどないので家や実家と聞いてイメージできる場所(生まれ育った家族が住む家)というものがありません。

 

僕が暮らしていた児童養護施設は定員の数が大きく担当の職員といくつかのグループに別れた子供達が一緒に暮らす、いわゆるホーム制をとっている施設でした。0歳児から18歳までの子供が共同生活をしていて、入所理由は様々ですが、現在多い虐待やニグレクトといった理由での入所は少なく、親との死別、片親のみで生活が困難、親が受刑中で引き取り手がいない、親に捨てられた、などの理由が多かったのではないでしょうか。

 

入所している子供の数が多いので、食事・入浴・学習時間などはある程度決まった時間にスケジュールされていて、思春期になるにつれ多少窮屈に感じることがありました。ただ、小さい頃に預けられたので、母親に会えない寂しさはあるものの、訳のわからない場所に無理やり連れて来られて生活させられているという気持ちは一切なく、小さい頃から一緒に生活している同学年や歳の近い子どもたちと楽しく遊んで生活していました。保母さんがお母さん、指導員の方がお父さん、同じホームで暮らす子供達が兄弟のようなイメージですかね。季節に応じた行事も多く、それなりに楽しく良い思い出になったと思います。馴染みのない方にはどんな生活なのかなかなか想像つかないかもしれませんが、刑務所や少年院のような生活ではなく、子供達と職員がわりと自由に和気あいあいと楽しく生活しています。一般の方が宿泊にかられると修学旅行みたいで楽しかったという感想を聞くことが多いです。

 

食事については専属の栄養士の方がバランスのとれた献立を作ってくださっていて、季節の旬の食材を使った食事が出されていました。食べ物を残すことは基本許されなかったので食わず嫌いがなくなんでも食べられるようになりました。

 

イジメは当然ありましたね、歳上あるいは力が強い子が歳下をあるいは仲間に入れない子をいじめるという構図です。今はどうかわかりませんが、90年代中盤ぐらいまではいわゆるヤンキーブームがまだ残っていて、つっぱること強がることがかっこいいとされていたのと、家庭の事情で児童養護施設に入って心が平安に浸る事なく非行に走ってしまう少年少女は結構な割合でいました。

 

親がいる子はもちろん面会が許されていて、子どもが小さいときは週末に施設に親が会いにくる、中学生以上になれば子供たちが週末親元に帰ることが普通でした。

 

お小遣いは一般の金額を目安に支給されていて当時、小学生が600-900円程度、中学生が1500円程度、高校生が5000円程もらっていたと思います。年に1-2度衣服代が支給されますが、なかなかほしいもには買えないので高校生になるとアルバイトをしてお小遣いを稼いだり、将来のために貯金する子も多かったです。

 

以上児童養護施設での生活についての話でした。まとまりのない文章ですみません、今日はここまで。